※以下、『トイ・ストーリー5』のネタバレを含みます。
『トイ・ストーリー5』を観てきました。
前提として、自分はかなり『トイ・ストーリー1』原理主義寄りです。
1の完成度が高すぎて、
2〜4も面白くないわけではないけれど、そこまで強い思い入れはない派でした。
もちろん2〜4も、おもちゃ自身のアイデンティティを深掘りし、
大人にも刺さる物語にしている点はすごいと思います。
3では、おもちゃとして子どもに遊ばれること、成長した持ち主と別れること、
そして次の子どもへ受け継がれることが描かれました。
おもちゃとしての「死」の徹底描写など、この時点でテーマがかなりのハードコアだったと思います。
4ではさらに、ウッディがおもちゃとしての役割から降りて、
「特定の子どもの所有物でなくてもいい」
「自由に生きてもいい」というところまで行ってしまった。
そこまでやって、シリーズ4作目までで
「おもちゃのアイデンティティ」の話はかなりやり切ったと思っていました。
さらに、5で何をするんだろう?
正直、観る前はかなり蛇足になるのではと思っていました。
でも実際に観てみると、ちゃんと新しい論点が出ていて驚きました。
やっぱりピクサーはすごい。
・5で登場する新しい脅威
今回の『トイ・ストーリー5』で面白かったのは、
まず「子ども社会の中でのおもちゃの扱い」が、
これまでのシリーズとかなり変わっているところです。
ボニーは内向的で、人形遊びやごっこ遊びが好きな女の子です。
でも、今の子どもたちの間ではデジタルデバイスで遊ぶことがかなり一般化していて、
子どもの遊びは必ずしも物理的なおもちゃで遊ぶことではなくなっている。
むしろ、ジェシーのような人形で遊ぶことは
「幼い」「ダサい」「赤ちゃんっぽい」と見られてしまう。
この時点で、旧主人公たちはかなり厳しい位置に置かれています。
かつては子どもの遊びの中心だったおもちゃたちが、今は時代遅れのものとして扱われる。
その中で、ボニーのもとにリリーパッドというデジタルデバイスが現れます。
一見すると、これは1作目のウッディとバズの関係に近いです。
今まで一番だったおもちゃの前に、新しくて魅力的な存在が現れて、居場所を奪われる。
でも5が面白いのは、リリーパッドを単なる悪役にしていないところです。
リリーパッドはボニーからおもちゃ遊びの時間を奪う存在でもあります。
でも同時に、ボニーが友達とつながるための道具でもある。
ゲームや通信機能を通じて、ボニーは他の子どもたちの世界に入ろうとしている。
リリーパッドは「おもちゃの敵」ではあるけれど、「ボニーの敵」ではない。
自分は観ながら、これはかなりAI論争に近い話だと思いました。
技術の発展によって、自分が信じてきた価値が揺らぐ。
自分が大事にしてきたものが、時代遅れに見えてしまう。
自分の役割がなくなっていくように感じる。
その時に、自分はどう振る舞うのか。
・ジェシーの老害化
ジェシーはかなり「老害化」しかけているキャラクターとして描かれていると思います。
もちろんジェシーはボニーを大切に思っている。
でも同時に、
「本当の遊びはおもちゃ遊びだ」
「デジタルデバイスに夢中になるのは良くない」という価値観を強く信じている。
そこには善意もあるけれど、
今まで信じてきた自分自身の価値にしがみついている部分もある。
だから今回の対立は、「おもちゃ vs デジタルデバイス」というより、
「古い価値観が、新しい価値観に出会った時どうするか」という話に見えました。
そして5の結論が面白いのは、1〜4までとはレイヤーが変わっているところです。
これまでのシリーズは基本的に、
「おもちゃ」と「子ども」の1対1の関係を中心に描いてきました。
おもちゃは子どもに遊ばれる存在である。
子どもに愛されることで価値を持つ。
でも子どもは成長し、いつかおもちゃから離れていく。
それでもおもちゃはどう生きるのか。
そういう話でした。
でも5では、そこから一段進んでいます。
おもちゃと子どもの関係が、
「おもちゃ ⇄ 子ども」
ではなく、
「おもちゃ → 子ども → 友達/社会」
になっている。
おもちゃは、ただ子どもに遊ばれるためだけのものではない。
子どもが他の子とつながるためのきっかけにもなる。
子どもが社会の中で自分の居場所を作るための媒介にもなる。
ここが5の新しい主題だったと思います。
「自分たちは子どもに遊ばれるために存在している」から、
「自分たちは子どもが世界とつながるために存在している」へ拡張されている。
これはかなり大きい変化です。
さらに面白かったのが、おもちゃやデジタルデバイスだけではなく、
ペットにもかなりフォーカスが当たっていたところです。
ブライスは馬や子豚を飼っていて、寂しい時に子豚に話しかけるシーンがあります。
この子豚はおもちゃではありません。
でも、ブライスの寂しさを受け止める存在であり、話し相手であり、安心の対象でもある。
つまり機能としては、かなりおもちゃに近い。
一方でリリーパッドはデジタルデバイスです。
物理的なおもちゃではないけれど、通信機能によって子ども同士をつなげることができる。
つまり5では、
おもちゃ、デジタルデバイス、ペット、そういうカテゴリの境界がかなり溶けています。
子どもを支えるものは、物理的なおもちゃだけではない。
子どもが寂しさを乗り越えたり、想像したり、誰かとつながったりできるなら、
その媒介はおもちゃでも、デバイスでも、ペットでもいい。
ここまで行くと、『トイ・ストーリー』なのに、もはや「Toy」だけの話ではなくなっている。
おもちゃの物語から、子どもの周りにある媒介たちの物語になっていると思いました。
・ピクサーの想像力・熱中信仰について
ここで少し思ったのが、ピクサー作品にはもともと
「想像力」や「何かに熱中すること」への強い信頼があるということです。
今作でも、ジェシーがデジタルデバイスたちと和解していく場面では、
ブライスのごっこ遊びへの熱中が重要な鍵として描かれていました。
そこでは、おもちゃ・デバイス・ペットという垣根を超えて、
想像力の中で一緒に楽しむことが肯定されています。
この想像力・熱中への信頼は、
同じピクサー作品の『ソウルフル・ワールド』でも印象的でした。
たとえば、何かを作ること、遊ぶこと、空想すること、夢中になること。
それはすぐに成果や評価につながるものではないかもしれない。
でも、その子の内面を育てたり、孤独を和らげたり、
世界とつながるきっかけになったりする。
ピクサーは、そういう
「役に立つ/立たない」では測れないものをかなり大事にしているのかなと感じます。
ただ、正直なところ、少し「またこの解決か」と思う部分もありました。
「夢中になれることは素晴らしい」
「想像力は子どもにとって大切」
「何かに熱中できること自体に価値がある」
このあたりの結論は少しだけ押し付けがましさを感じました。
でも、それでも本作が良かったのは、
そこで単純に「だから昔ながらのおもちゃ遊びが正しい」とはしなかったところです。
自分たちの存在価値を守る話ではなく、
子どものために、自分たちは何ができるのかを考える話にしていた。
そこが本当にさすがだと思いました。
・5の本当の主題
よく感想に上がっている、
ジェシーがかつての持ち主エミリーとの思い出を再確認するシーンは、とてもエモいです。
大人になったエミリーがジェシーと遊んだ記憶を残していて、
さらに自分の子どもに「ジェシー」と名づけていた、という展開は泣かせにきているし、
ジェシーの傷を癒やす場面としてはかなり効いていました。
ただ、そこは少し「3や4でも似た結論をやっていなかった?」とも思いました。
「遊びが終わっても思い出は消えない」
「忘れられていたわけではない」
「子どもの中におもちゃとの記憶は残る」
というのは、シリーズがすでに扱ってきたテーマでもある。
だから、ジェシー個人の救済としては必要だけれど、
5の本当に新しい論点はそこではないと思います。
5の新しさは、やはり
「おもちゃは子どもに遊ばれるだけの存在ではなく、子どもを社会につなぐ媒介でもある」
というところにある。
そして、その役割はおもちゃだけのものではない。
デジタルデバイスも、ペットも、動物も、子どもを支える媒介になりうる。
大事なのは媒体の種類ではなく、
その子の心が動くか、寂しさが和らぐか、誰かとつながれるか。
そこに答えを出したのが、かなり良かったです。
『トイ・ストーリー5』は、
「昔のおもちゃは素晴らしい、デジタルデバイスは悪い」
といった単純な懐古の話ではありませんでした。
むしろ、古いものが新しいものに出会い、自分の価値をどう更新するかの話だった。
1〜4までで「おもちゃ自身のアイデンティティ」を描き切った後に、
5で「子どもを社会の中で育む媒介」としてのおもちゃを描いた。
これまでの自己完結しがちなアイデンティティ哲学を超え、
「結局、社会で生きていくために本当に必要なことって何か?」
をソリッドに突き詰めている作品だったと思います。
AIやテクノロジーの発展で
目まぐるしく変化する現代の中でこそ、突き刺さるテーマでした。
2026年の今だからこそ、5作目をやる意味が十二分にある続編だったと思います。
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